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コラム

おばあちゃんと私

祖母・・・橋本シゲ子

私の接遇の根っこに部分には彼女の存在が非常に大きい。彼女の考え方、生き方、人への接し方など、今考えると今更ながら血を感じる。

戦前戦後を生き抜いてきた心身ともに強く、逞しく、それでいて女性らしい。和服の似合う祖母であった。

(ここからは、祖母に聴いた話である。)

「学校へいっきょった時はな、うちほんま身体が弱かってな~。すぐに腹が痛と~て痛と~て寝てば~いおったんじゃ。」
(娘時代は体が弱く、すぐに腹痛をおこし学校も休みがちでその上貧乏。勉強どころか畑仕事、家の手伝い、妹の世話に明け暮れての生活であったそうだ。字も書けなかった。)

結婚相手は、親に決められ婚礼当日に初めて顔を見た。
「父ちゃんは背が高くて男前さんだったじぇ~。」

職業はいまでいう警察官。
結婚してすぐに長女(私の叔母)が生まれた。

その後戦争へ。戦争の合間(束の間の休みに帰宅)次女(私の母)を授かった。また、戦地へ。
満州(台湾)で戦死。私の母は自分の父親の顔も知らない。
引き上げ船で夫の遺骨と幼い二人の娘をかかえ、日本に着く間、絶望とこれから先の不安が襲い幾度となく甲板から3人で飛び降りようとしたそうだ。

その時に、娘たちの顔を見るとどうしてもできなかった。
「この子らがかわいくてな~。」

日本に帰ってからは嫁ぎ先から追い出され、女ひとりで必死で働いた。

叔母は中学をでると母の学費を貯めるために働き、母を高校まで行かせてくれた。

私がもの心ついたと時も祖母は住み込みで旅館の掃除をしていた。
いつもいつも働いていた祖母であった。

その為、60代の後半ころには既に腰が曲がって年齢より年に見えた。
私に逢った時にはいつも笑顔で「おお~お純ちゃん、よ~来たな。」と私の小さな手を握りほっぺを擦り付けてきたものだった。

その祖母の手は両手の小指の第一関節が内側に曲がり、節も太くおせじにも綺麗な手とはいえなかった。(今、母は祖母と全く同じ手をしている)

孫達(つまり私)のお誕生日やお祝いごとには必ず現金書留が届き、それはひ孫にも続いていたそうだ。

封筒には祖母が必死で覚えた不揃いの字が書かれていた。私が大きくなった時は「純ちゃん、すまんこれ書いてくれるか~。」と封筒を差し出すこともあった。

~続く~